暴力装置



もしも夜の鳥が、女性に抱きかかえられた女性を目にした時、冷たい涙を森に落とすだろう。その時、シネマの記憶装置、もしくはシネマトグラフ覚書の1ページが濡れ、小龍包の屋台で男が笑う。あの人が男装した伯爵夫人に違いない。実際は読まなければ分からない。人がひとり、暴力に夢を絡めると相性が良いというのを証明した北野武に暴力を振るわれた事が、映画を外部における装置として機能させた。これにより、俺の夢が暴力を暴力として認識するかどうかを、北野武にしか委ねることが出来なくなり、俺はこれを、賛成の暴力とするか、反対の暴力とするか、反体制の暴力にするか、を曖昧にすることで、ノンポリと呼ばれても良いと、思うわけである。ここでいうノンポリは、ノンポリスであり、全て暴力で解決することをよしとする風潮のことである。リアル、ではなくアンリアルの話で、映画における暴力の扱い方が余りにも切な過ぎるというか、被害者が暴力を描く時、残虐になりがちであるという、あまりに悲しい現実に、映画作家がどれほどひ弱な暴力を受けてきたかが浮き彫りになってきているという、いじめられっ子映画史なるものが書きそうなあたり、書けそうなだけで終わっておく方が自分の為だと考える次第。触るとロクなことにならない。暴力装置と同じく。

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